laid back

ほかから移ってきました。日々、思うところ感じるところを気ままにつらつらと。

夢見がち...。

 何かを始めようとする時、「そうあってほしい」「そうなるといいな」などと、誰もが希望を抱く(と、思う)。

 「それを始めたら、あぁ、あんなことこんなことそんなこと、結構、嫌なことも起こるかもしれないなぁ...」と、心の隅にちょっとばかし引っかかりを抱きながらも(そういう場合があるなら...)。


 希望的観測が悲観的観測をどうしても上回ってしまう。少なくとも自分の場合は...。




 そんなこと、ないですか?






 個人的な事柄ならすべて自己責任だから、どう転んでも自分自身で尻を拭えばいいわけだが、これが仕事がらみだと。。。


 危機的管理は、希望的観測からよりも悲観的観測からより多くの有効打が繰り出されるのではないだろうか。


 年の瀬となり、あと1ヵ月ほどで新しい年を迎える。それに続いて新年度が始まる。新しい区切りには、新しことが動き出すのが世の常。それを目前に控え、そんなことを考えている。


 そのきっかけは、以下の文章。昨日、読みながらハッとした。


 「欧米諸国では、『政策は誤る可能性が高い』ことを前提にして、政策を起案する。だから、制度改革に際しては『どうしたら大失敗するか』についてのシミュレーションにまず時間を割く。
 ところが、日本の官僚や政治家は、『どういう要素によってこの政策の成功は妨げられるのか』という問いを吟味することを嫌う。
 それは『統治者は無謬であらねばならない』というありえない条件に、彼らが取り憑かれているからである。
 おのれの無謬性を強調しようとする人は『これまで自分が犯した失敗とその被害・これから犯すかもしれない失敗とその被害』を過小評価する。
 すると、『実はこれまで犯してきた失敗のすべてに共通するパターンがあるのではないか?』というもっとも生産的な問いが封殺されてしまう。」(内田樹著『街場の憂国論』から)


 本での指摘は国の政策立案に関してだが、もっと小さな単位の事柄にも十二分に当てはまると思う。

 肝に銘じよう。自戒を込めて.....。