laid back

ほかから移ってきました。日々、思うところ感じるところを気ままにつらつらと。

天罰。

 状況が状況だけに、すっかり忘れてもいいのに、頭の中にこびりついて離れない。

 震災後間もなく発せられた石原都知事の「天罰発言」。

 世間の大方の皆さんと同じように怒りを通り越して呆れかえった。

 「あんただけには言われたくない!」と思った。その途端、あっけなく発言を撤回して謝罪した石原さん。さすがの“放言癖”が真骨頂の頑固者も、都知事選を前にさすがに「マズイ!」と思ったのだろう。

 ただ今回の彼の発言、正確に言えば言葉が、引っかかるのだ。

 天罰。この言葉に。

 多数の被災者の方々に、その言葉が投げつけられる故は全くない。そもそも、その言葉を向けられるべき対象があるのだろうか?逆に、その対象がないと言い切れるのだろうか?

 歯切れがとても悪いのは、自分自身、その答えが分からないからだ。原発関連の事故報道を見ていると、決して自然とは調和することがない原発という現代社会の科学的創造物の異様な存在感を考えないわけにはいかない。

 敗戦後、日本は脅威のスピードで復興した。こんな小さな国が世界の経済大国にのし上がった。金にあふれ、バブルを謳歌したあの時代。それもつかの間、すべてが泡となり、経済が陰り、長い不況のトンネルに入った...........。自分が生まれていない時から始まっていたここまでの道のりで、日本は常に経済優先の思考で歩みが進められてきたのではないだろうか?

 下品な言い方をすれば、「何もかにもが金」という価値観が、知らぬ間に人々の思考の中に深く根差すようになった(もちろん、『そんな事はない』と異議を唱える人もいるだろうが)。自分たちの親の世代、まして祖父母の時代から比べれば、生活は比較にならないほど豊かになった。半面、それ以上に失った物は多い。平和になって、生活が豊かになって、自ら命を絶つ人々が増え続ける社会って何なんだろう?

 そんな事を考えると、天罰という言葉がひどく気にかかる。

 大震災で亡くなった方々、いまだ行方が分からない人々、被害を受けた方たち.........。高齢者や子どもたちも多く、不便な場所が目立つ。傷つくのはいつも弱者だ。

 天の仕業にしてはむごすぎる。長きにわたって積み重ねられ、無自覚となってしまった社会の構造的な仕業が底流にあるような気が、どうもするのだ。

 そのツケを、東北の太平洋岸地域に住む人々が身をもって払わされた。非業の死。無念の死.............。

 この国には、天罰を受けるべきような輩がほかにごまんと居るというのに。

 あまりに無情ではないか。