laid back

ほかから移ってきました。日々、思うところ感じるところを気ままにつらつらと。

無口な男の子。

 毎朝7時過ぎに我が家の前を通って小学校に向かう男の子は、いつも決まってまっすぐ前を見つめて歩みを進めている。

 ちょうどそのころ庭の掃除をしているワタクシは、「おはよう」と声を掛ける。

 が、「おはようございます」とあいさつが返ってくることは十中八九ない。

 最初のころ、何が起きているのかよく分からなかった。

 少し距離をあけてその男の子と連れ立って歩いてくる、年下と思われる男の子と女の子は、目が合えばあちらから「おはようございます」と言ってくる。

 なぜか、あの男の子だけがあいさつしてこない。

 不審に思ってある日、「おはよう」と一度言ってから、無言の彼に近付き、もう一度、「おはよう」と言ってみた。

 少しビクついた素振りを見せた彼は、ボソボソとした口ぶりながら「おはようございます」と返してきた。

 普通、こういう出来事があれば、翌日から、「おはようございます」というあいさつが幼い彼の口から自然と出てくると思うのだが、全く何事もなかったかのように、彼は無言で学校へと向かって行った。相変わらず、誰とも目を合わせたくないかのように視線を真っすぐ前に見据えて...。

 それ以来、あまりその子に声を掛けないでいる。

 正直、どうしたらいいのか分からないから。

 加えて、男女2人の小学生たちは元気にあいさつしてくれるので、そちらを相手にしていたほうが気が楽だし。

 とはいえ、気にはなる。どうしたものか...。最近は寒くて、庭掃除もしていないのであの男の子とも会わなくなってきたのだが...。

 劇作家の平田オリザさんは、著書『わかりあえないことから コミュニケーション能力とは何か』(講談社現代新書)で、「分かりあう」ことに重点を置くのではなく、「分かりあえない」ところから出発するコミュニケーションの在り方について書いている。

 最初から分かりあうことを求めるのではなく、分かりあえないことを前提に踏み出すコミュニケーション。





 なんだか分かったようで分からないが...。結論を急ぐな、ということかもしれない。分かりあおうと努めはするが、分かりあえなくとも仕方がない。そんなことなのかもしれないな....。

 無言の男の子を前に、「どうしてあいさつしないのだろう?」と考える自分は、「あいさつして当たり前」が、前提となっている。が、しかし、この男の子は「別にあいさつしなくても構わない」、あるいは「あいさつするのはそれほど大切なことではない」というふうな考えが前提になっているのかもしれない。

 そうだとしたら、まさに「分かりあえない」状況にあるんだな、俺たち(笑)。

 思い起こせば、この子が通う(娘も以前通っていた)小学校の近くには、こんな立て看板が掲げてあり、「なんだかなぁ...」と、随分前から思っていた。


 「知らない人とは話さないように。」


 ワタクシ、この男の子にとっては単なる近所のオジサンのつもりなんだが、この子にとっては、近くに住んでいる知らないオジサンなのだろう。彼は彼で、大人が言っている言いつけをきちんと守っているにすぎない、とも考えることができる。だとしたら、この子は、とても良い子なんだろう。

 冬が終わり、春になって季節も気分も陽気になったら、今度はひと味違った声掛けでもしようか。


 「おぃ〜す。元気か、坊主? 車、気ぃ付けてな!」


 一見乱暴に聞こえるけど、こんなざっくばらんなフレンドリー・フレーズを毎日投げかけていたら、「おはよう」なんて当たり障りのない平凡なフレーズよりよっぽどインパクトがある。知らない間柄から速効で開放され、案外仲良しになるかもしれないな。

 あるいは、その子が通学路を変更して、我が家の前に現れなくなるかもしれないけど......。