laid back

ほかから移ってきました。日々、思うところ感じるところを気ままにつらつらと。

ひとり旅。

 この春中学3年生になる娘を妻が身籠っていた時以来なので、ちょうど15年ぶりのひとり旅だった。

 前回も行き先はインドネシアバリ島だったが、今回は西のはずれにあるスマトラ島の北端バンダ・アチェ。2004年12月26日のスマトラ島沖地震津波で多数の犠牲者を出した場所で、かつてはインドネシア政府からの分離独立を目指すテロ行為や暴動が発生していた危険区域だった。

 サーフポイントとしてのアチェは、以前から知っていた。サーフツアーの企画を目にし、「いつか行ってみたいなぁ」と思いながら年月が経過した。テロが発生し、次いで津波が街をのみこみ、自分にとって、ますます遠い場所になってしまっていた。

 東日本大震災がなかったら、おそらく、今回の旅はなかったと思う。

 震災の津波で、自分のホームポイント「仙台新港」に入れなかった時期があった。東京電力福島第1原発事故による放射能汚染もあり、状況が状況だけに仕方がなかった。

 海に再び戻ったのは震災後4か月後の2011年7月中旬。片手で数えられるほどの人数のほかのサーファーたちもいたが、しばらくは先輩と2人だけの波乗りだった。

 この体験を通して自分が感じたのは、自分の目と考えを持って再び海に戻ってくるサーファーたちがなんと少ないことか!という一種の落胆だった。

 全国に名を轟かせる仙台新港にしてそうなのだから...。

 あの当時、自分に対して無言の批判の声や目が向けられているように感じていた。

 そういう人たちの気持ちは分からないわけではなかったが、自分の理解を超えていた。多数の被災者の存在と、サーファーとしての規範をはっきりと分けて考え行動しないことには、マイナス思考の〝泥沼〟に入ってしまうだろうと思った。

 だから、他人がどう思おうと、言おうと、ずっと波乗りを続けてきた。

 とはいえ、心境は複雑で、何ともいえないようなモヤモヤしたものをずっと心に抱えていたことも確かだ。

 スマトラ大震災から約9年3か月経過していたバンダ・アチェの白く美しいビーチに立った時、なんだかとってもホッとした。






 波打ち際のすぐ近くに、バラックのような素朴な手作りの海の家がポツリポツリと立ち並び、ローカルや外国人のサーファーたちがのんびりと浜辺でくつろいでいる。数百メートル沖では、綺麗に波が割れていて、サーファーたちが果敢にバレルに挑み続けている。

 この場所を津波が襲い、家屋建物、たくさんの人々の命を一瞬にして奪ったという事実を知らなければ、いや、たとえ知っていたとしても、目の前の光景は、穏やかな日常でしかなかった。

 そう、ありきたりの時が流れ続けていただけ...。

 その平凡な光景に、とても安堵した。

 サーファーたちは、この場所にいい波が押し寄せるから、地元から、海外から、日本からはるばる海を越えてやって来る。

 平和なビーチで、いい波がたてば、必ずサーファーはやって来る。






 思えば、東日本大震災からまだ2年しか経過していない被災地の仙台で暮らし、破壊されたビーチで波乗りを続けてきた自分は、先に被災したサーフスポットの今を確認することで、気持ちを整理させたかったのだと思う。

 まるで震災はなかったかのように、人々は水辺で暮らし、遊び戯れ、祈りを捧げていたバンダ・アチェ

 時は移ろい、そう遠くない将来に、きっと、東日本大震災津波被災地でも同じような光景が当たり前になる日がくるだろう。

 その時、今より元気で穏やかな気分で海の中に陣取っていたい、と心から思う。

 波乗りという名の〝ひとり旅〟は当面終わりそうもない...。





出発前につぼみだった庭のクロッカスが黄色い花を咲かせようとしている。もう、春なんですね。