laid back

ほかから移ってきました。日々、思うところ感じるところを気ままにつらつらと。

哲学的な話に、耳を傾ける。

 不安な時代に生きているからか、ことさら震災後に読のは、哲学的な内容の本が多い。

 さすがに、本格的な哲学書を読みこなすには、知性と時間と根気がないだけに、読みやすい「的」な本をパラパラと(^_^;)。

 連休中に読んだ1冊が、自分的にとても良かった。

 哲学者内山節さんの『文明の災禍』(新潮新書

 東日本大震災後の半年後には早くも世に出ていた。今ごろ、気付きました(^_^;)。

 内山さんとは、こちらからの一方的な縁がある。

 新庄支局にいたころ、よく出入りしていた林業家の方が内山さんの著書に感銘を受け、毎年夏になると地元に招待する形で小さな勉強会を開いていた。そこに顔を出したことがあり、何冊かの本を読むようになり、少なからず影響を受けた。

 新聞の連載コラムは時折読んではいたが、変わらずぶれることのない内山さんの思想に深く共感していた。

 そして、この本。

 震災後のタイムリーな時期に書かれた本だが、出版から1年半以上経った今読んでもかなり新鮮に感じる。こうした哲学的な本ってのはそうでなくては意味がない。読む時期が少しずれただけで〝賞味期限〟が切れたのではお話になりませんからねぇ。





 「供養」を序章に、「衝撃」「群衆」「時間」「風土」「共有」「自由」の大きく7章から成る。

 気になった文章を以下に。

 「死を諒解する構造を失ったこと自体のなかにも、現代文明の敗北は存在している。その結果、自然の災禍にもまた文明の災禍という性格が付与されてしまった。現代文明が、自然の災禍をもこの文明社会のできごとに変えてしまったのである。そして人々から自然と人間の関係を喪失させたという、これもまた現代文明の在り方が、自然の変動を恐怖に変えた。三陸の漁師たちのように津波をも自分たちの営みのなかに飲み込んでいく力強さを、われわれは失っていた。ここにもまた現代文明の敗北がある。」

 「ところが東日本大震災以降の現実のなかで私が感じたものは、情報を大量に受け取ると逆に人間は適切な判断ができなくなる、あるいは判断自体がつかなくなる、という現象だった。そしてそれは、インターネット時代にはすでに発生していた現象でもあった。」

 「今日の日本は、被災地の復興と日本のつくりなおしを同時におこなっていかなければいけない。そしてそう考えるとき重くのしかかるのは原発被災地の問題である。ここでは未来の時間が停止され、被爆した自然と放置された生き物だけがときを過ごしていく。私たちにできるのは、この現実を抱えこむことだけである。」

 「地震津波原発事故という不幸な経験は、確かな生は確かな関係とともにあるのだということを私たちに教えた。」


  ◇   ◇   ◇

 内山さんの言葉で言うなら、巨大なシステムの中に取り込まれて現代社会を生きているわれわれは、震災を契機に、本当の意味で生き方を見直さなければいけなのだと思った。

 その「本当の意味」が何なのか? 実はそう書いている本人にはよく分からない。ただぼんやりと、そう思っている(^_^;)。

 いや、そう、思い直した、と言ったほうが正確なのかもしれない...。

 とまぁ、いい本なのでお薦めの1冊です。興味のある方はどうぞお手に取ってみてくださいな。