laid back

ほかから移ってきました。日々、思うところ感じるところを気ままにつらつらと。

初めまして。

kny-laidbackと名付けてみました。

ブログタイトルから取ったものです。

現在使っているSNSがもうじき閉鎖になるので、こちらにデータを移してみます←ただ今、必死に操作中(^_^;)。

上手くデータ以降できたら、古いブログですが、よろしければ読んでみてください。

ほかのプラットフォームはほとんど使ったことがないので、ここでの反応を知りたいです。

よろしくお願いします。

ではでは。

では、走ってみますか...。

 本を読み終えた翌日、ゼビオスポーツのジョギングシューズコーナーにいた。


 数ある靴の中でも最も安い靴を試し履きしながら、「ところで、どれがいいんですかね〜」と、近くにいた店員さんに尋ねてみた。

 「安さより質です。今、一番にお薦めしているのがこのタイプです。底が厚いので膝に優しく初心者の方にはうってつけなんですよ」

 「自分は走らないので感覚はよく分からない」とも言った彼女だったが、素敵な笑顔と懸命なセールストークにほだされ、今、手元にそのジョギングシューズがある。

 これ、なんです↓。






 全くの勢いだった。

 本の内容が結構面白かったので、なんとなく走ってみたい感覚にとらわれたんですな。

 


 罪な本め。これです↓。意外と面白かったですよ。




 買ってから思い返すのも間抜けだが、実は、あんまり走るのが好きではない。どちらかというと苦手なほうだ。学生の頃は、体力づくりと割り切って頻繁に走っていたけど、好きになることはなかった。

 だって、苦しいし...(^_^;)。

 とはいえ、買ってしまったからには無駄にはしたくない。

 家についてから早速靴を履き替え、試走してみた。


 彼女が言っていたように、確かにクッションの具合がよろしく、滑らかに走れているような気になった。山の上の団地なので起伏が激しい自宅周辺。調子に乗って、急な階段を30段ほど一気に駆け上がってみた。



 やっぱり、しんどい。しんどいもんはしんどい。たとえお薦めの靴を履いていたにしろ...。


 翌日、たった数キロ走った程度なのに、両脚の太ももが張っている。

 痛い...(^_^;)。



 さて、これからどうしようか...。




 とりあえず、気が向いた時限定でジョギングを始めようと思う。本の主人公たちのように「頂点を狙う!」なんて大それたことなど考えず、自宅周辺をチョロチョロと...。


 せっかく買ったんだからなぁ〜。


 改めて、自分って影響されやすいオトコなのだと思う。。。

“今どきのワカモノ”...。

 いつの時代も、年長者は自分たちより年若い人たちに、何かと言いたがるものだ。

 伝統的に年長者を敬うこの社会では、その慣習が年々形骸化しつつあるといわれながらも、少々おせっかいな“御託”は広く根強い価値観のように思われる。

 バブルの余韻がまだ続いていた1980年代半ばから90年代初めに社会人となった我々世代は、その当時、「新人類」などという呼称で、年上のオジサマ、オバサマ方から半ば嘲笑されていた、気がする(^_^;)。

 ちょっと風変わりな格好や態度、意見、行動があると、「あぁ、あいつは新人類だからなぁ〜」などと言われたものだ。決まって、「今どきの若者はなぁ〜...」というフレーズを前後に付けられて...。

 世代が変わっても、こうしたメンタリティーというものはそう簡単には変わらないものなんでしょう...。

 かつての新人類が、自分たちが若者だったころを忘れたのか、「いやぁ〜、今どきの若者ったらさぁ〜...」などとしたり顔で話している場面に頻繁に出くわすのだから...。




 さて、その「今どきの若者」で、最近気になっている2人の学生君たちがいる。

 ともに会社の仕事がらみで知り合った男子で、フェイスブックの「お友だち」。彼らの投稿が、非常に面白い。

 「面白い」というのは、笑い転げたりにやけたりさせてくれるような類じゃなくて、「興味深い」ということ。

 とても、真摯なんですよ。

 真面目であればいい、だけとは思わないけど、彼らの真面目さにハッとさせられる。

 政治的な事柄について、自分の意見をバシバシと小気味いいほどに書いている。その都度、「ふんふん、なるほど、なるほど」と感心しながら読んでいる。内容が内容だけに、好意的なコメントだけではなく、執拗な(に見える)絡みもたまにある。

 でも、くじけないんだね、彼ら。

 社会的な問題やテーマを、自分たちなりに考えようという姿勢がすごく伝わってくる。それぞれの意見が正しいか間違っているかの判断はよう分からないけど、自分たちが疑問を抱いている事柄に関して、それを「我が事」に置き換えて考えている真剣さが、眩しい。

 素敵だよ、君たち。


 大方は知り合い同士のつながりで出来上がっているフェイスブックでは、個人におけるこうした真面目な投稿は、どちらかというと敬遠されがちなのかもしれない。

 彼らの絡まれ方に、「人事に響くよ」とか「就活控えて何言ってんだか」などといった、ちょっとばかし脅しめいた反応もあった。

 でも、くじけないんだね、彼ら。

 
 ピースマークに彩られた呑気で平和すぎる、自画自賛のオンパレード投稿にちょいとばかし食傷気味な日常に、彼らの情報発信が刺激を与えてくれている。


 「なんだい、やるじゃない今どきの若者くんたちも」


 元新人類のオジサンは、そんなことを思っている。。。

夢見がち...。

 何かを始めようとする時、「そうあってほしい」「そうなるといいな」などと、誰もが希望を抱く(と、思う)。

 「それを始めたら、あぁ、あんなことこんなことそんなこと、結構、嫌なことも起こるかもしれないなぁ...」と、心の隅にちょっとばかし引っかかりを抱きながらも(そういう場合があるなら...)。


 希望的観測が悲観的観測をどうしても上回ってしまう。少なくとも自分の場合は...。




 そんなこと、ないですか?






 個人的な事柄ならすべて自己責任だから、どう転んでも自分自身で尻を拭えばいいわけだが、これが仕事がらみだと。。。


 危機的管理は、希望的観測からよりも悲観的観測からより多くの有効打が繰り出されるのではないだろうか。


 年の瀬となり、あと1ヵ月ほどで新しい年を迎える。それに続いて新年度が始まる。新しい区切りには、新しことが動き出すのが世の常。それを目前に控え、そんなことを考えている。


 そのきっかけは、以下の文章。昨日、読みながらハッとした。


 「欧米諸国では、『政策は誤る可能性が高い』ことを前提にして、政策を起案する。だから、制度改革に際しては『どうしたら大失敗するか』についてのシミュレーションにまず時間を割く。
 ところが、日本の官僚や政治家は、『どういう要素によってこの政策の成功は妨げられるのか』という問いを吟味することを嫌う。
 それは『統治者は無謬であらねばならない』というありえない条件に、彼らが取り憑かれているからである。
 おのれの無謬性を強調しようとする人は『これまで自分が犯した失敗とその被害・これから犯すかもしれない失敗とその被害』を過小評価する。
 すると、『実はこれまで犯してきた失敗のすべてに共通するパターンがあるのではないか?』というもっとも生産的な問いが封殺されてしまう。」(内田樹著『街場の憂国論』から)


 本での指摘は国の政策立案に関してだが、もっと小さな単位の事柄にも十二分に当てはまると思う。

 肝に銘じよう。自戒を込めて.....。

付かず離れず、寄り添う...。

 結婚して18年と半年ぐらいになる。


 仲が良い夫婦だと思う(たぶん...(^_^;)。


 他人同士がこのくらいの期間一緒に暮らし、その間、子どもを授かり、住む場所の環境が変わり、仕事内容が変化し、趣味嗜好に違いが出て、体調も容姿も若いころとは随分変わってしまうぐらいの変遷があったが、相変わらず、我が家は穏やかな家庭だと思っている。

 幸運に恵まれているのかもしれない。

 そもそも必要以上に高望みしないから、満足度が高いほうなのかもしれない。

 もしかしたら、すべてが思いすごしかもしれないけど...(^_^;)。

 などと、こうしてこれまで不満の少ない日々を送ることができてきたのは、常にお互いが他人であることを忘れずに暮らしてきたことなんだろうと思う。

 結婚したからといって、どちらかがどちらかに“染まる”必要はないし、どちらかの所有物でも付属物でも片割れでもない。いつまでも、個人対個人の関係。そんな思いで、「夫婦」という関係を続けてきた。


 これからも、ずっとそうだろう。いや、そうあり続けたい。適当な距離感を保ちつつ...。


 
 感謝の気持ちから、そんなことを考えていた昨日11月22日(いい夫婦の日)だった...。

自覚したい、エチケット。。。

 以前当たり前でなかった光景が、今では当たり前になっているということがしばしばある。

 善い悪いの価値判断は別にして。

 そのひとつに、何でもかんでも携帯やスマートフォンのカメラでパシャリと撮影し、その場でフェイスブックやらツイッターに投稿している人々の光景がある。

 特に、レストランやバーなどの飲食店で、自分や仲間の目の前に出された品々を、バシャバシャ撮りまくり、味わう前に、「まずは激写!」されている方々。

 この意味が、よく分からない。

 っていうか、はっきり言ってみっともない。

 多勢に無勢という言葉があるように、今では多くの人々がやっている行為なのであまり奇異には映らなくなってきたが、それでも。。。

 Foodstagramという英単語がある。

 Food(食べ物)と写真共有ソフトのInstagramを合わせた造語だそうで、「スマートフォンなどで料理の写真を撮ってネットに載せることに病みつきになっている人」という意味。

 どうです?心当たりありませんか?


 撮ってネットにアップする行為の面白さに同調はしないけど、店の人に許可なく勝手に撮っている行為がマナー違反だと思うのだ。

 「自分がお金を払った品なんだから別にいいだろう!」という考えがあるだろうが、それこそまさにみっともない。

 「そんなふうに思われるのは心外。別にいいじゃない!」という向きには、「不感症ですね」という言葉を送りたい。

 特にレストランなどで出される料理は、その店で提供され、食されることが前提だ。それを勝手に写真に撮って、その場にいない、店の人さえも知らない不特定多数の人々に“情報公開”するのはマナー違反ではないのか?

 もちろん、それを拒まない店とか奨励、歓迎している店の場合は、「どうぞご自由に」。奮って宣伝作業にいそしんでいただければいいと思う。

 そうでなければ、勝手に撮る前に、店の人の気持ちを推し量って確認すべきだと思う。

 当たり前のような顔して、バシャバシャやりまくっている方々は、そのへんをよぉく考えた方がいいと思う。

 

 「撮影禁止」などの文言を壁に貼っている店をよく見掛けるようになった。それだけ店側にとって“迷惑な客”が少なからず存在しているということでしょう。こんな類の張り紙が出されるってのは、恥ずかしいことだと思うんですが...。


 たとえ悪気がなくとも、エチケットは大切にしたい。などと思う今日この頃...。

親父。。。

 父が亡くなってから間もなく20年がたつ。

 あの時、正直、それほどの哀しさはなかった。

 2人の姉は既に嫁いでいて、自分はまだ独身だったが社会人として自分の道を勝手に進んでいた。仲違いしていたわけではなかったが、父とは長いこと見えない距離があり、それをうめられずに別れたことになる。
 
 どちらかというと、苦手な男だった。

 そんな親父を、自分が40を過ぎたあたりから思い出すことが多くなった、気がする。

 それほど親しくもなかったのに...。

 いろんなことに直面しながら、「あの親父だったら...」などと想像する自分がいるのだ。

 30代のころにはほとんどなかった自分の姿に、それなりの年を重ねた感覚を抱く。

 なんだか、とっても不思議な感覚...。


 10代のころ、反抗し続けた。

 20代になり、言葉を交わすことも極端に少なくなった。

 社会人となり、互いを認め合う仲にはなったが、距離がぐんと縮まったわけではなかった...。

 わだかまりのような心理的葛藤を、息子は勝手に抱いていた...。





 あれから、20年...。


 早いなぁ。


 当時は生まれてさえいなかった娘が15歳になる。


 彼女も、自分が親父に抱いたような感情をいつの日か持つのだろうか?

 
 こんな感傷に浸っているのは季節が秋だからか。

 もうすぐ、冬だなぁ...。