laid back

ほかから移ってきました。日々、思うところ感じるところを気ままにつらつらと。

バッシング。。。またですか...(^_^;)。

 「よしよし、やってくれた! ふふふ...」



 具体的にどう表現したかなんて分かるはずもないが、想像するに、そんな思いでほくそ笑んだ輩は多かったはずだ。


 その上、杓子定規に「けしからん!」と必要以上に騒ぎ立て、「対応を協議する。何らかの処分をくだすことになるはず(くださなければいけない)」などともっともらしいことを、笑いをこらえながら神妙な顔つきでコメントする政治家の方々。

 そうしたことに、さほどの疑問を抱かず、その“異例の行為”だけに過剰反応して巷に流される“トピックス”。あるいは、“ニュース”。それを耳にし、目で確認し、「それみたことか! やっぱりあいつは!」などと感情的に吠えまくる人々...。

 先の参議院選で当選した、原発反対論者の山本太郎議員が、昨日開かれた秋の園遊会で、天皇に手紙を直接手渡した件。

 宮内庁によると、園遊会で出席者が天皇に直接手紙を渡すのは極めて異例だという。

 原発に関する実情が書かれている内容の手紙らしく、この行為を批判する人々は、「天皇政治利用につながる」とがなりたてる。あるいは、「請願法違反だ!」と、御丁寧にも法解説する向きも現れている。



 こういうの見ていると、「なんだかなぁ〜.....」って思うんですよね。


 まぁ、相手が相手だけに、異例のことだけに、注目される事は理解できるが、それほどムキになって糾弾すべきことなのか?


 一部の方々には、目の上のたんこぶのような存在である山本さんのパフォーマンスだから、こんなに騒ぐんだろうなぁ〜と思っている。



 いや、確信している。



 これは、明らかにバッシングだ。





 もし、手紙を手渡された天皇自身が、受け取るのを嫌がればその場で拒否すればいいだけのこと。

 それだけではないか?


 仮にもし、同じ場所で、東京2020オリンピック・パラリンピック招致委員会評議会議長で公益財団法人日本体育協会名誉会長の元首相森喜朗氏が、五輪招致成功の報告を兼ね、自身が会長を務める日本ラグビーフットボール協会をはじめとするスポーツ振興への熱い思いをしたためた親書なる手紙を手渡したとしたら、どうなのか?

 天皇に直接手紙を手渡した、という行為に全く変わりはない。

 人物と手紙の内容が違うだけだ。



 おそらく、森氏の仮定の話の結末は、こんな具合か。

 同じように「けしからん!」という声が出るが、激しいバッシングなど起きず、多くの人々が、「まぁ、あの人、ちょっとおバ○だからねぇ〜」ぐらいで納得して収まる。


 要は、そのくらいの話、なんだと思う。





 鬼の首を取ったようにしたり顔でがなりたてる輩のなんて多いこと(実際の数は少ないのかもしれない。ニュースとして登場したり、ネット上でやかましくがなりたてる人々が目立つからそう感じるだけなのかもしれない)。


 いやはや、この空気感、気持ち悪いなぁ〜。


 ネット上の“バッシング風景”をのぞきたい方はこちらへ↓ 


  掲示板

  ハフィントンポスト

内に秘めた悪意。。。

 人の不幸や失敗、犯した間違いなどを、ひそかに快く思ってしまう自分がいる。

「ざまぁみろ」

 そんな言葉を心の中でつぶやきつつ、あるいはほくそ笑みながら...。

 常日ごろから嫌悪している人ばかりではなく、ごくごく普通に接している人に対してさえ。状況や気分が、自分の中に“邪悪な思い”を呼び起こす。

 自覚しながら抱く嫌悪感。

 ひどく小さな自分が、哀しい...。愚かだ。ちっぽけだ。

 小さいころから、こういう感情には気付いていた。

 現実に振る舞っている自分と、それを頭上から俯瞰している自分がいて、主観的な思いと客観的な思いがないまぜになっているようで、案外クリアーですっきりとした感覚のような心持ち。。。


 でも、哀しいかな、そうした思いを完全になくすことができない。哀しいのかどうかも実際分からない。。。



 周りの人々にそれを悟られないようにすることはできる。


 でも、感情は心の中に澱のようにたまり続ける...。




 これって、自分だけの話なんだろうか?



 否。どんなに周りから聖人君子のように思われている人でも、いい人と思われている人でも、それなりに立派だと評価されている人でも、大なり小なり誰でも同じような気持ち、感情を抱いたことがない人はいない、と思う。



 そんなことを考えている。。。








 「暴力はやってくるのではない。帰ってくるのだ」



 読み終ったばかりの小説『光』三浦しをん 集英社文庫)の文中に出てくるこの言葉は、人間が内面にひめている暴力性のことをいっている。






 人を傷つけるのは、なにも殴ったり蹴ったり刺したりするようなバイオレンスに限らない。言葉や態度、振る舞い、悪意、といったことでもたやすく傷つけられる。直接人を傷つけない暴力、という形もある。例えば、呪い、とか。



 この小説は、東日本大震災が起こる以前の2006年に発表された。小さな島に押し寄せた大津波が壊滅的な被害を及ぼし、数百人の島民が死に、6人だけが生き残った。

 生き残った人々の、ある種、「悪意のお話」なのだ。

 読後感は全くすっきりしない。場合によっては、読まないほうがよかった、と思う人がいるかもしれない。

 題材が題材だけに、文庫本化が今月まで長引いたのも理解できる。


 本の帯に、こうある。

 「自然が引き起こした圧倒的な力より、われわれ自身の中に潜んでいる暴力、もしくは暴力への萌芽こそ、真に恐るべきものではないか。我々はそれを知りながら、気づかないふりをしている―。」



 まずは、自覚することから始まるのだと思う。。。

たかがラーメン、されどラーメン。でもなぁ...。

 新装開店のご案内はパチンコ店の専売特許だと思っていたのに、昨今、どうもラーメン店に勢いがあるように思う。

 かつて杜の都・仙台は、全国有数の古着屋の街として知られたこともあったが、今、周辺地域を含めてラーメンの街として台頭してきているんじゃないだろうか、なんてことを思っている。

 それほどに、多い。多いよ、ラーメン店!

 嫌いじゃないので、いろんな味のラーメン店ができるのは大歓迎なんですが、ちょっと不満もある。


 高い! 高すぎる! っと感じる店が少なくない。

 なんで1杯のラーメンが800円とか、時に1000円前後の値段になるわけ? 

 特に、若いオーナーの店にこの傾向があると感じている。「中華そば」がウリの、おじちゃん、おばちゃんが営むお店は、あまりそういう〝はしたない〟〝みっともない〟ことはしない。「さぁ、儲けましょう!」ということをしないもんです、〝まともな店〟であればあるほど。

 はっきり言いましょう。

 ラーメンって、そもそも原価が高くない。

 「こだわりの肉」だとか、「こだわりのスープ」だとか、「こだわりの麺」.....など、食材にこだわった結果、値段が高くなったと反論されそうだが、その「こだわり」にも...。

 違和感を感じる店ほど、やたら〝自己PR〟が激しい。店内の壁とかメニューに、これでもかってほどに「こだわり」が箇条書きされている。分かり易くていい、というご意見もありましょうが、そんなこと、聞かれたら口で答えればいいじゃないのよ。気になれば、直接聞きますから。

 大学生のころ以来、カロリーが高いラーメンはほどほどにしていたんだけど、このところ、なぜか急に熱にかかったように食べ歩いている。そんな折、以上のようなことを感じた次第。

 加えて、今日の昼間、美味しくて格安な個人経営のラーメン店を見つけたので、前々から思っていたことを書きたい衝動に駆られてしまった。

 とはいえ、値段が高くとも「おいしい、おいしい」と言って、そうしたお店に通い続けているお客さんたちもいるわけなので、それはそれで需要と供給のバランスが保たれている、ということなのでしょう。

 余計な口をはさむ立場にないわけですが...。


 でもなぁ...。

No.520 なぜ、綴るのだろう...。

 ブログを書き始めてから、ほぼ3年半になる。

 半ば仕事の立場で書き始めたころとは状況が変わり、現在はほぼ個人的に文章を綴っている。

 「立場」を問われることもあるが、他人が思うように本人はそこのところはほとんど意識していない。

 では、どうしてブログを書き続けているんだろう?

 やめたって一向に構わないのに。


 たぶん、基本的に楽しいからだと思う。

 書き損じたことは多々あるが、書く内容に困ったことは一度もない。いろいろ考えたり思ったりすることが好きなので、書きたいことはいくらでもある。


 たまに、何を書いたらいいかよく分からない、という声を聞くことがあるけど、それがよく分からない。

 思うに、そういう“悩み”を抱えている人たちは、書く前に、読み手のことを想像しすぎているのではないだろうか?

 目に見えない、あるいは目に見えるその他大勢の読み手のリアクションなるものを...。

 あるいは、書き慣れていないという事情もあるのだろうが、こんな事を書いてもいいのかな?という素朴な疑問を抱えているからかもしれない。


 いずれにしろ、常識的な判断さえできれば、何を書いてもいいのだと思う。

 書き手も読み手もそれぞれの嗜好があり、読み手の判断のほとんどはその嗜好性にほぼ左右されるのだから。




 「ブログを今ではほぼ日課のように書くようになって、いろいろな事に目が向くようになった。何か書くネタはないか、という目線で日常を過ごすようになると、何事にも敏感になっていることに気付く。常にアンテナを張りめぐらしている感じ」

 先日、こんなことをブロガーのお1人が話されていた。こういう段階になるまでさまざまあったのでしょうが、こう話される彼女の表情が素敵だった。

 そんな彼女のブログは、いつも多くの方々に読まれている。




 ブログでは、綴った先に、読み手の共感や意見などさまざまなリアクションがある。

 書き手にとって、時に喜ばしくないリアクションもある。


 けど、なにも反応がないよりはいいと思う。


 書き続けていると、嫌な事よりいい事のほうが多いとも思っている。



  

Music Box No.14 演歌は嫌いだけど...。

 10代のころ、たまたま知り合った洋服店で働く20代後半の女性(この当時、こういう職業の方々はハウスマヌカンなどと呼ばれていた)がこう言っていたのを覚えている。

 「ワタシもさぁ、昔はさっぱり分かんなかったんだけど、このくらいの年になると、味わいっていうのかな、奥深さっていうのかな、何となくじんわりと感じてくることがあるわけよ。演歌、いいなぁって、最近思っているんだよね。キミも年を重ねたら、その良さがきっと分かってくると思うよ.....」

 あれから30年余。そう話してくれた女性の年齢をはるかに越え、50代に届こうかという年齢になったが、相変わらず、演歌は好きになれない。

 とにかく、大半の歌詞が嫌いだ。曲調が気分を沈ませる。しみったれたイメージがひどく、好きになれない。演歌に対する印象は、ティーンエージャーのころとさほど変っていない。毛嫌いしなくなった程度に許容範囲がちょっと広がったくらいか。



 そんな音楽嗜好のワタクシ、最近ちょっと、「演歌の女王」さまにはまっている。

 「トラック野郎の女神」なんて呼称もあったようですが。

 お察しのとおり、八代亜紀さんでございます。

 昨年初めてリリースしたジャズアルバム『夜のアルバム』(ユニバーサルミュージックジャパン)がかなり良く、先日発売されたセカンドジャズアルバムを手に入れた。




 女王憧れだったというヘレン・メリルをゲストに招き、ニューヨークの名門ジャズクラブ・バードランドで開いたライブの収録アルバム『夢の夜 八代亜紀 ライブ・イン・ニューヨーク』(ユニバーサル ミュージック合同会社)。



 『雨の慕情』で始まり『別離(わかれ)』に終わる全10曲が収録されている。


 いやぁ〜、いいですね、八代さん、だてに女王なんて呼ばれていないんですね。もっとも、そもそもルーツはジャズなんですから当然といえば当然なんでしょうか。たまたまかどうか知らないけど、演歌ですっかり有名になってしまったので、長いこと、知る人ぞ知るジャズ歌手だったということらしい。


 ヘレン・メリルと共演した、あの名曲『You'd Be So Nice To Come Home To』のハスキー・ボイスの歌声は、ヘレンさんそのものを超えている、ように耳に響く。




 そういえば、ワタクシ、女王にお目にかかれる絶好の機会をみすみす逃してしまった。

 こんな素敵な催しが地元であったのに......。チケットを買いそびれてしまった(^_^;)。

 
 まぁいいや。手に入れたCD、はからずもライブ版だし。これでしばらく我慢することにしよう.....。


 ちなみに、タイトルの「Music Box」シリーズ、1年4ヵ月ぶりの更新。音楽を聴いてなかったわけではなく、書いていなかっただけです...。

みっともないよなぁ...。

 コンビニのレジカウンターでいら立ち気味の客がぞんざいにたばこの銘柄を指定している。デートと思わしきカップルが、喫茶店で向い合って座りながらあまり言葉を交わすことなくそれぞれにスマートフォンの画面をながめている。地下鉄では、コンパクトに映し出された自分の顔の化粧具合を確認、修正する女性のそばで、女子高校生たちが周りをはばかることなくゲラゲラと大げさに笑っている。

 歩道を歩く背広姿のサラリーマンが、取引先らしい電話口の相手に丁寧ながら大きな声でしゃべり続け、その前方から、ヘッドホンを付けた若者がかなりのスピードで自転車をこいで向かってくる。小さな子どもと歩いていた母親が、「ほら、危ないからこっちおいで! こっちだってば!」とがなりたてる。

 車道を、離れた場所からでも聞こえるぐらいの大音響でカーステレオをかけている車が通り過ぎ、あんまり用をなしていない交通整理員のオジサンが横断歩道の端の所で、「ハイハイ、こっちを渡ってください」などと言っている。誰も聞いていない。目を合わせようともしない。多くの歩行者が、携帯かスマホをいじくりながら歩いている。

 インターネットの世界では、どこそこのお店が美味しいだとか、これを食べました、買いました、手に入れましたなどと報告がてら、自分の車やらアクセサリーやら服やらご自慢の品をアップし、御丁寧にも自分の居場所を逐一公開している。

 夜のネオン街に久しぶりに出歩けば、相変わらず地味な色の背広をまとったサラリーマンたちが上司や部下の悪口を言い合いつつ、それぞれの自慢話を語るのを忘れない。聞いているふりして誰も聞いていないカラオケの曲が次から次と替わり、酔い潰れた老若男女がたまに道端で吐いている。地下鉄の座席ですっかり寝込んでしまった客が車掌に起こされ、千鳥足でホームを歩いていく...。


 ありふれた日常の光景。。。


 子どものころから見てきた光景もあるけど、大人になって当たり前になった光景もある。近年では、そんな光景になんだかすごく鈍感になってきたけど、つぶさに見つめる自分の周囲は、ざっとこんな感じで、ハッピーに思えない場面に少なからず彩られている。



 そんな状況に、ふと、なんだかなぁ、なんて思う時がある。




 新作を読んでいる藤原新也に影響されてか、彼の『空から恥が降る』(文春文庫)を思い出し、「みっともない」という言葉に思いいたった。



 偉そうに、他人さまのことをとやかく言える立場じゃないのは分かっているが...。

小さなリベンジ。

 朝晩、キンモクセイの甘い香りがかすかに鼻孔を突く季節になった。

 季節は廻ってあれからまた秋。1年が経つんだなぁ。

 1年前、娘を珍しく強い口調で叱った。

 フルートのソロコンテストに出場し、本選で明らかに不甲斐ない演奏を披露した彼女。緊張とかプレッシャーにあまり強くないタイプだから、本番で怖気づいたのだと思う。

 それは仕方がない。舞台慣れしていないのだから。

 責めたのは、その後の態度。受賞を逃した悔しさを微塵も見せず、何事もなかったようにケロッとした態度だった彼女に、オヤジは、無性に腹が立ってしまった。

 少人数の参加者が集まる小さなコンテストではあるが、ここを目標に頑張っている同じ年代の子どもたちがいて、実際、前日の予選では、落選した女の子がとても落胆した様子で涙を流していたのを見ていたからかもしれない。

 日頃から稽古をつけてくれている先生や伴奏を務めてくれた別な先生、アドバイスをくれたまた別な先生たちへの思いに至らない彼女の態度をとても寂しくも思った...。

 娘はその後、自分としては当時大きな目標としていたコンテストで東北大会への切符を取り逃し、相当に悔しい思いをしたらしい。小さな壁にぶつかった経験が重なった。

 いつだったか忘れたが、「同じソロコンテストに出場したい」と言われた。今年は高校受験生の身で、将来音楽の道に進むわけでもない彼女が出場しなくてはいけない立場にはなかった。

 でも、「どうしても出たい」と言われた。

 そう言われれば、快諾するしかない。けど、「大丈夫なんだろうか?」と多少心配する親心はあった。



 終わってみれば、そんなことは杞憂だった。

 先週初めから彼女は風邪をひいていて万全な状態ではなかった。それでも、一昨日の予選、昨日の本選とも堂々とした立ち居振る舞いと見事な演奏を披露し、目標をはるかに超える1位で中学生活最後の晴れ舞台を飾った。

 「良かったです。これで今日はぐっすり眠れます」

 喜びと安堵した様子でそう話した先生の言葉が印象的だった。

 娘もうっすらと涙を流し喜んでいた。


 この1年の彼女の努力を知っているだけに、こちらの喜びも大きい。

 頑張ったね。。。


 家に帰ってきた娘は、「これ、パパに」と言って、ふたつの祝儀袋をこちらに向けた。

 昨年と今年の副賞が入った祝儀袋だった。今年のはもちろん、昨年の袋も一度も開けていなかった。

 この1年、彼女なりにこれを考えていたんだろうな...。そう思うと、じ〜んとくるものがあった。


 本音を言えば、のどから手が出るほどほしかった現金ですが(^_^;)、それを悟られないよう平静を装いながら、「それは自分で好きに使ったらいいよ」と言って返した。


 小さな〝挫折の経験〟を、しっかり受け止めてきちんとその後の糧にした彼女の姿がまぶしかった。