laid back

ほかから移ってきました。日々、思うところ感じるところを気ままにつらつらと。

以心伝心。

 河北新報夕刊で、プロ野球東北楽天マーティー・ブラウン監督夫人、ブラウン杏子さんが「まちかどエッセー」を連載している。興味深く読んでます。
 21日は「文化の違い」と題し、謝罪を巡る日米の慣習の違いについて綴っていた。なるほど、ですね。このエッセーを読む時、いつも文章の内容を離れて別の思いをめぐらせている。
 「マーティーも杏子さんもすごいなぁ」って。
 何がって? そりゃ、国際結婚がです。
 顔見知りでもないお二人には要らぬ詮索、余計なお世話なのだが、それぞれ成人するまで全く文化の異なる土地に暮らした男女が結びつき、暮らし続けていくことは結構、たいへんなことだと思う。経験がないので想像でしかないが、国際結婚の成否のカギは、コミュニケーションにあると思う。異国語を話せるか否かという問題ではなく、どんな些細なことでも言葉によって説明、説得、理解、納得する、ということだ。
 これは、骨の折れる作業に違いない。日本人にとって当たり前のことでもアメリカ人には何のことだかさっぱり分からない。逆もしかりで、その思いを共有するには、ひたすら言葉を交わす以外に方法はない。人格を形作る成長期を全く違う文化圏内で過ごしてきた2人に、仏教圏、特に日本人には馴染みの深い「以心伝心」は万能ではない、ということだ。
 価値観が多様化した現代、日本においてさえ、世代や育った環境の違いで、かつては重宝がられ美徳ともされた以心伝心は、時に大きな誤解や混乱、予期せぬ反発まで招くことすらある。
 苦く、忘れられない思い出がある。
 1年ほど日本を離れ、諸外国でぷらぷら遊んでいた大学時代。帰国した息子に父はこう言った。
「お前、理屈っぽくなったな。全く、疲れるよ」
 生来の生意気さが増幅した、と父の目には映ったのだろう。しかし息子の目に、父親の姿は「大切なことを言葉にすることを避けている人」と映った。寡黙なことを男の生き様にしてきた昭和1ケタ世代の男と、バブル期の青春時代を過ごし、世界の多様な価値観をほんの少しだけでも知ってしまった新人類の男が、正面から向き合うことはできなかった。互いに歩み寄れず、気が付けば、言葉を交わすことも少なくなってしまっていた。
 
 今になって思うのだ。とことん言葉を交わしていれば、と。

 以来、 「以心伝心」をあまり信用していない。