laid back

ほかから移ってきました。日々、思うところ感じるところを気ままにつらつらと。

脱ノスタルジア。

 過ちや間違いも度を越すと耐えられない。審判の世界も同じ事がいえる。

 今回のサッカー、ワールドカップ。明らかな誤審が繰り返され、人間の目がプレーを裁く限界を見せつけた。

 そこでにわかに議論となっているのが、スポーツの判定にビデオ映像など最新技術を導入すべきかーという是非論。たまたまW杯で誤審が相次いだことでホットな話題になっているけど、この議論自体はそう新しいことではない。

公の席上できちんと検討されたかどうかということではない。アマチュアスポーツの祭典であるオリンピックはもちろん、野球やサッカー、ボクシングなど、テレビで放映されるスポーツ中継で、たびたび首を傾げたくなるような判定を下したプレーがリアルに映し出され、フラストレーションがたまり続けているお茶の間での話題だ。

 それぞれのスポーツ団体のお偉さん方たちが、判定に際して最新技術導入の在り方を話し合う(話し合いさえない団体もあるのだろうが)かなり以前から、われわれ聴衆は、テレビという最新機器で人間の目による判定の正確性と過ちを見抜いてきた。「ホークアイ」と呼ばれるライン判定機がテニス界で導入され、定着しつつある現状ではなおさらのこと。導入是非論自体に、「何をいまさら」という思いさえ抱いてしまう。

 6月30日付朝日新聞朝刊スポーツ面のコラム「side change」で、編集委員の潮智史氏がこう書いている。「ビデオ映像など機械によるゴール判定導入論にうつかつに乗れない。(中略)誤審は人間がやっているからこそ許せる。そんなおおらかさがスポーツにあっていい」。

 これも1つの見識だろう。だが、この考えにこそ「うかつに乗れない」。

 そもそも、最新技術があるにもかかわらず、なぜそれほど人間の目にこだわるのか。リアルタイムで非常に微妙で細かい部分までも映し出せる時代に、ルール上での「審判は絶対」という決まり事は既に時代遅れ。テニスのようにプレーの醍醐味を壊さない程度に技術導入すれば、当事者の選手はもちろん多くの観衆が、少なくとも現状よりは試合結果に納得するはずだ。

 潮氏のような主張には、多分に郷愁が含まれる。もはや、スポーツはノスタルジアで語る時代ではない。

 判定のルールを変えることなく、これからも審判という人間の限界を、当の人間が作ったさまざまな最新技術によってまざまざと見せつけられ続ければ、スポーツそのものの醍醐味さえ削いでしまうことにならないだろうか。