laid back

ほかから移ってきました。日々、思うところ感じるところを気ままにつらつらと。

非日常から日常へ。

 今年、20年を迎えた「定禅寺ストリートジャズフェスティバル」を不定期に観察しながら、漠然と思うところがあった。

 11日付け河北新報朝刊の「河北春秋」で紹介していた、イベントの生みの親の1人で音楽家の榊原光裕さん=仙台市在住=のコメントを読んで、その気持ちが強くなった。

 冒頭、「音楽は特別なものじゃない。日常の中になければと思っていたんです」と話した榊原さんは、「囲いを取り払い、戸外で自由に演奏できる環境をつくろう」と、イベントの出発点を振り返っていた。コラムは、「行政や企業に頼らず市民の力でという運営方式に徹し、いまや750余のバンドが参加する日本最大の音楽祭に成長した」と指摘している。

 この20年の間で、ジャズフェスが市民に音楽を身近に感じさせる場を提供した役割の大きさはいくら強調しても足りないほどだと思う半面、榊原さんが話しているように、果たして、音楽が日常の中にある、と言い切れるほどに仙台の街は変わったのだろうか?

 自分はそうは思わない。

 それは、イベントがイベントであり続けている限り、日常ではないからだ。もちろん、ジャズフェス自体は今後も末永く幅広く継続していただきたいと願っている。

 文字通り、日常的に音楽が街にあふれているのが理想だと思う。

 頭に描くのは、NYやヨーロッパの街角で活動しているストリートミュージシャンたち。彼ら彼女らは、行政の許可を受けてさまざまな音楽を奏でている。許可を受けるということは、一定以上のレベルということ。好き勝手に音楽を奏でがちな日本のストリートミュージシャンとは全く異なる。道行く人々は、雑音ではない、聞くに耐えられる、いや、聞き応えのある良質の音楽を街中で当たり前に聴いている。

 日常の音楽とはこういう光景ではないのか。

 仙台でこれを実現するためには越えなければいけないハードルはかなり高い。ただ、ジャズフェスを成功に導いた情熱のある市民らが真剣に取り組めば、不可能ではないはず。行政に代わって管理や運営を市民団体が担当すれば、新たな雇用の創出にもつながる。

 ここはひとつ、っというか、ここまできたからには、今度は行政側に一肌脱いでいただき、市民とタッグを組んで音楽を日常の中に取り込んでいく文化環境を整備してほしいと思うのだ。

 突飛な考えでしょうか?

 雑音の洪水のような街が日常だから、ジャズフェスが非日常でもあり続けている。二十歳となったジャズフェスの今後に、この現実を少しでも変える大きな原動力になってほしいな、と期待するのです。