laid back

ほかから移ってきました。日々、思うところ感じるところを気ままにつらつらと。

憂鬱な〝お墨付き〟。

 制度上、避けられない判断なのだが、「予想以上に早かった」というのが正直な感想。その判断を導いた一人ひとりをとがめる権利もその気も全くないのだが、かなりブルーな気分にさせられた。

 横浜地裁で昨日16日に言い渡された、求刑通りの死刑判決。裁判員裁判では初の極刑だ。国民が直接裁判に加わるという点から、今回の死刑判決の意味は、相当に重く深いと考える。

 ほんの一握りの数とはいえ、裁判員という形で選ばれた国民が、つまりは、「国による殺人」を認めたことになる。選ばれた裁判員の、最終的な判断に至る苦悩とか被害者遺族の感情といった側面についてはここでは言及しない。事実として、死刑とはそういうことなのだ。

 そもそも、死刑制度の存続に関して賛否両論があり、国民的議論を尽くしたとはいいがたい状況で、裁判員制度は導入され、ずぶの素人の人たちが、犯罪を犯したとはいえ(冤罪の可能性も十分ありうるが)人間の生死にかかわるまでの重大な事件の判決の決断を迫られるのは、一体どうしたものなのか?

 是非はともあれ、導入された制度の入り口について今さら言ってもどうにかなるわけではないのだが。

 こんな疑問が頭から消えない。

 死刑制度の存廃を含めた刑罰の在り方の議論に決着をつける前に裁判員制度を導入することで、極刑が出た際に表面化する(死刑廃止を求めるサイドからの)批判の矛先を国民自身に向け、焦点をぼかせようとしているのではないか?と。

 邪推だと言い切れるだろうか。

 仮釈放のない終身刑がない日本では、最も重い刑を選択するケースとなった場合、仮釈放の規定がある無期懲役か死刑しかない。その中間がない選択肢での判決を、わずかな日数の評議で選ばざるをえない裁判員の苦悩と制度上の〝盲点あるいは欠陥〟を忘れてはいけないと思う。

 ひとつの、そして高く越え難かった壁が、〝いとも簡単に〟越えられてしまった感じがして怖い。