laid back

ほかから移ってきました。日々、思うところ感じるところを気ままにつらつらと。

怒りの狭間で。

 「キレる」という言葉が当たり前に使われ、ちょっと怒っただけで「あっ、キレた!」と言われかねないこのご時世。

 「あいつ怒っているよ」というフレーズより、「あいつキレてるよ」のほうが、どうも耳障りが悪いと感じるのは気のせいだろうか。

 キレる大人に関し、ウィキペディアではこう解説している。

 :1990年代初期に「若者がキレやすくなった」とマスコミで言われるようになり、一種の「若者に対するレッテル」として社会問題化して扱われることがあった。(中略)近年では、「キレやすい老人」「暴走老人」と言われる老人、または「モンスターペアレント」といった子育てをする「キレやすい」中年世代も出現し、若者に限らず「キレる」という現象が議論されている。

 2008年出版の『キレる大人はなぜ増えた』(朝日新書)を読み、「なるほど」と思いながらもなんとなくすっきりしない読後感を抱いた。

 著者の精神科医香山リカは、臨床の現場で直接出くわしたり、あるいは聞いた話として「キレる大人」の具体例を紹介し、精神医学で言うところの「行動化」について分析し、価値観の変化や権利意識の高まり、新自由主義の浸透などさまざまな要素による現代社会の変化を原因に挙げている。「『キレる』大人は、現代社会の中で必然的に増加している」とも、指摘している。

 その状況が2年経った今でも変わっていないことは、新聞紙面の社会面が教えてくれる。

 気になっているのは、キレる人の増加よりむしろ、キレる人を見つめる視線の冷たさと白々しさの度合いに加え、「触らぬ神にたたりなし」とばかりに、自分の関心事以外は何事にも積極的に関わろうとしない傾向が強まっているのではないか、という違和感。

 こうした人々は、俗に「無関心層」とも呼ばれる。あまり自分を表に出さず、物言わず、一見冷静そうに見える。その一方で、他人には極力見せることのない心の中に秘めている感情は、キレる人たちとは対照的にかなり複雑のようで、どんどん内向していっているのではないだろうか。

 「キレる=悪いこと」という考え方が今以上に浸透していくと、正当な理由からの怒りそのものさえ悪者扱いされかねない、と感じている。

 それって、なんか嫌な世の中じゃありませんか?