laid back

ほかから移ってきました。日々、思うところ感じるところを気ままにつらつらと。

言いっ放し。

 誤解を恐れずに言えば、言葉は、常に独り善がりだ。

 それゆえ、発する相手を間違えば、毒を盛られて“返り討ち”に遭う。

 言葉を伝えるという行為は、相手がいて初めて成り立つ。言葉の持つこの危険性を無意識あるいは意識して、人は言葉を発し、それへの反応がある。絡み合うその言葉のやり取りが、コミュニケーションだと理解している。

 先ごろ、動画サイトで退任表明し、一切の記者会見を拒否した秋葉忠利広島市長。前代未聞な退任表明はかなり画期的で、その手法に賛否両論ある。ひとつ確かなことは、広島市民を代表する市長は、その職務に区切りをつける重大な席での発言に、コミュニケーションは不必要だと判断したことだ。

 明白なサボタージュだと思う。

 この秋葉市長さん、動画の最後にこう言ってます。

 「仕事は変わりますけど、みなさん(※市民ということでしょう)と一緒にまたさまざまな形で協力して、よりよい未来をつくるために一緒に行動できたら、たいへんうれしく思います」

 これだけ読めば(聞けば)、脱(※嫌とスイッチ可能)コミュニケーションの人の言葉とは取れない。要するに、「自分の言いたいことだけ言いますから、勝手に聞いてくださいね。一応、節目だから、この場を使って話しましたよ」という、とても身勝手な発言態度なのだ。

 こういう、「自分は言うけど、それに対する意見は聞かない」的な一方的な態度を、ネットという便利なツールはいとも簡単に可能にした。

 その是非は問わない(問うことができない、とも思う)。

 でも、言いたい。

 「自分の発言には責任を持て」

 反論などのリアクションを嫌い、あるいは怯え、またあるいはただただ恫喝めいた憂さ晴らしを目的とするために言葉を発するならば、独り言にとどめておくべきだろう。

 単なる言いたがり屋という目立ちたがり屋に、信用は伴わない。