laid back

ほかから移ってきました。日々、思うところ感じるところを気ままにつらつらと。

「まず、さぁ......」

 とかく議論を交わし始めると、どうしても白黒つけたくなりがちだ。熱くなればなるほど感情的になってしまい、議論が全くかみ合わずに空中分解することすらある。「議論」って言葉自体がそもそも好きになれないんですが(^_^;)

 原因はいろいろ考えられるが、「結論に向かって急いでしまう」という心理的要素も見落とせない。特にビジネスシーンでは、議論の結果を急ぐ場合がほとんどで、合理的、効率的思考と行動が常に求められる。ビジネスシーン以外の日常生活の中でも、そうした傾向が強まっているのでは?と、漠然と思っている。

 結論を急ぐあまり、「こっちが正しい」「そっちは間違っている」という二者択一の正誤判断で会話が進められる傾向、結構、ありません?

 かねてから、「あいまいな日本人」は世界の主要国から批判的な目で見られてきた。その基準の範囲内では、まだまだ日本人はあいまいなのだと思う。でも、それが正しいのか間違っているのか、といえば何とも言えない。あまり意味のない質問だと思うから。

 「日本特有」とも形容されるこの「あいまいさ」が、このところ肩身が狭いようだ。「ギスギスした社会」とも感じる現代社会の風潮と無関係ではないのでは?

 そういえば、「ハンドルの緩さ」とか「ねじの緩み」「遊び」という言葉を、この頃あまり聞かなくなった。

 タイトルの言葉は、かつて一緒の地域で働いていた同世代同業者の知人の口癖だ。議論めいた話になると、彼はそう言って、次なる言葉を続けたものだ。ほんの一瞬だけの絶妙の間と意味合いは、まさしく「あいまいさ」だった。

 あいまいさは、時と場合によってコニュニケーションの絶妙なスパイスとなる。隠し味は、決して露出してはいけない。スパイスの配合と調合という微妙で繊細な味付けは、なければ味気がないし、ありすぎてはまずくなる。要は、バランス感覚の妙だ。

 かの精神分析学者フロイトは、こんな言葉を残している。

 Maturity is the ability to live with ambiguity.(大人になるということは、あいまいさを受け入れる能力をもつということだ。)

 何もかにも白黒つければいいということじゃないんですね。(たぶん)