laid back

ほかから移ってきました。日々、思うところ感じるところを気ままにつらつらと。

思春期。

 “情緒不安定”という意味では、思春期を脱しきれずにいる中年だが、12歳の娘は今現在、その入口に立っている。

 思い起こせば、自分の反抗期の始まりはまさにこの時期だった。自分が親にしてきた事を、今度は娘にされる可能性が高い。

 結構、これって怖いかもしれない。でも、逃れられない。親になるとは、そういうことなんでしょう、つまりは。

 自分が親に反抗した理由はさまざまだった。ただ、一番よく覚えているのは、社会常識だとか風習、習わし、規則とかの理由で、ダメ出しされたり、「もっと大きくなればお前も分かる」などと言われ、きちんと説明されなかったことだ。いまだにふに落ちない思いがある。

 校則については、親とかなりぶつかった。世間体という考え方でも意見が一致することは少なかった。それより何より、性についてはまともに言葉を交わすことすらはばかられる雰囲気があった。ある時期まで、間違った知識を持っていたのはこのためかもしれないし、時代がそうさせたのかもしれない。

 性の知識を親と子どもが“共有する”ことの是非は賛否両論あると思う。聞いてもいないのに、知りたくもないのに、親が勝手に気をまわして子どもにあれやこれやと知識を植え付けるのは確かに疑問だ。自分たちの時代とは変わって、学校では今、それなりの知識を子どもたちに教えているのだし、そもそもこの類の話は、むしろ同世代の仲間と共有しながら知識を広げていくのがより自然なのかもしれない。

 ただ、そうした知識を、子どもからダイレクトに聞かれた場合、親は嘘を話したり、会話を避けてはいけないと思う。真面目な問いには誠実に答えるべきで、たとえ正確に分からなくとも、きちんと答える親の態度こそが大事なのではないだろうか?

 先日、「あいまいさ」について書いたが、↓
http://flat.kahoku.co.jp/u/aihara/gpGyTotn1mAZIlFQ42is
この領域において、親は子どもに対してあいまいであってはいけない、というのが自分の考えだ。

 この先、娘は幾度かの恋を経験し、それなりの段階を上っていく。幾通りもある恋の道を、激しく踏み外さないためにも、親は陰ながらそっと、しっかりと支えていく責任と役割がある。「親がごちゃごちゃ余計な事を言わないでも子どもは育つ」という考えもあるだろうが、普遍的ではない。

 言うは易く行うは難し、だと思う。これから10年ぐらいは、この言葉がずしりと肩にのしかかってくるのだろう。

 親としての力量が問われることになる。

 一見辛そうだけど、案外面白いかもしれない。