laid back

ほかから移ってきました。日々、思うところ感じるところを気ままにつらつらと。

信じる、ということ。

 物心が付く以前から、母に連れられ、教会に通っていた時期があった。

 母が結婚した当初、父の母に勧められて入信したある宗教団体の月例会だったと記憶する。幼い自分を母が連れていくことは、子どもの世話でもあったと同時に、息子を入信させる動機付けでもあった。

 幾つぐらいだろう?小学校4、5年生だったか。教会に行くことをきっぱりと断り、「今後、一切、教会とはかかわり合うつもりはない」と、母に宣言した。子ども心に、「何かが違う」と感じたからだと思う。

 以来、自分は“無縁”となった宗教の世界だが、それまで比較的信仰心が薄かった2人の姉と亡くなった父が、後に同じような時期に入信し、母と同じ信者となった。

 おそらく50年以上にもなる信者の道を歩んできた母を見ていると、信じることの凄さのようなものを感じる。信じてきたから、信じているからこその精神的な強さというものがある。

 とてもかなわないな、と思う。

 宗教を信じる自由があるかぎり、宗教に関して母に何かを意見することはほとんどない。逆に、無宗教の自分に対して母があれこれ言ってくることも全くと言っていいほどない。口にこそ出さないが、それが、お互いへの尊重なのだと思う。

 それにしても、ひとつの教義を50年来唱え続け、暗誦し、身体に沁みつかせてきた“鍛練”を思うと、それだけで気が遠くなってしまう。

 信じる先に、何があるのか?救いという光なのか?

 無宗教の凡人は、すぐにそんなことを考えてしまう。