laid back

ほかから移ってきました。日々、思うところ感じるところを気ままにつらつらと。

“枠を外れた”面々。

 世界50カ国を巡った末に辿り着いた。日本各地を放浪して沖縄からやって来た。鹿児島からキャンピングカーを飛ばしてきた。大学を中退し、医者を目指して再受験を狙っている青年。仕事が激減したためにちょっとボランティアのツアーガイド。自由な時間を利用して足繁く通う定年退職者たち。県外者に負けじと頑張る地元の人たち。求職中の身。学生、主婦、自ら被災者.......。

 「情報ボランティア」として、4月末から断続的に通い続けている仙台市内の災害ボランティアセンター。そこに集う面々は、ひどく個性的で、語弊があるかもしれないが、あまりに、“魅力的”に自分の目には映る。半ば職務と言いながら、実は、新たな出会いを楽しみにボラセン通いをしている(職場の皆さん、ホント、ゴメンナサイ(^_^;)。

 性別、年齢はもちろん、出身地も違えば、社会的立場、地位、経済状況などいろんな事情が異っている。人の数だけ人生があるように、ボラセンに集まるボランティアの数だけさまざまな生き方があり、その中に、数多くの耳を傾けるべきエピソードがある。

 それらに、特に惹かれるのだ。

 無意識にも、意識的にも、彼ら多くのボランティアはある意味、常識と言う名の枠にとらわれない生き方をしている。

 作業現場では、日常生活では当たり前のような社会的地位、つまり、肩書が通用しない。社長だろうが平社員だろうが、教師だろうが医者だろうがフリーターだろうが、そんなことはあまり関係なく、熱意を持って働くのか、働かないのかが違いなだけ(かと言って、そもそも競争でもないので、力量差で差別されることもない)。まぁ、泥だらけになりながら、『俺は某有名な会社の社員なんだぞ!そんな俺に指図するな!』なんて言っても全然意味ありません(^_^;)。

 この雰囲気が、なんかとっても心地がいい。

 広い社会、いろんな人がいるということは頭で分かっていても、実際に話を交わし、協力し合うような行動を共にしないことには、その人物が実際どういう人なのかなんて分かりようがない。もっとも、分かった気にはなるが、深く理解したかどうかというのはまた別の問題。まっ、それはそれとして...(^_^;)

 ボランティアの人たちに話を聞けば聞くほどに、『常識』という考え方への疑問がますます深まっていくこの頃なんです(一体、どこまで疑い続けるんだ?って聞かないで!)。

 そういえば、“先生方”なんて呼ばれて喜んでいるような、社会的地位のとても高い“お偉方さんたち”が、昼間にバカバカしい事をやっていたなぁ〜。

 「全く、どうしようもない」

 口にするのさえ、アホらしいと思うのは俺だけでしょうか?