laid back

ほかから移ってきました。日々、思うところ感じるところを気ままにつらつらと。

ちょっとタブーでなくなった?

 語ったことで、地雷を踏むことがある。

 地雷だと知っているから、口を閉じてしまう。

 いかなる時代、いかなる土地柄でも、「沈黙は金」という場合はある。

 例えば、ここ日本では、天皇とか創価学会とか同和問題とか基地問題...。こういったジャンルを語る場合、至る所に地雷が潜んでいる。だから、一般的には会話上のタブーとなっている。

 長い時間軸でみた場合、こうしたタブーも「時と場合」の域を出ていない。

 感覚的に、「原発」も震災前までは一種のタブーだったように思う。違う?

 それが東京電力福島第1原発事故を機に、かなりオープンな形で俎上に上せるようになった。「実際、何があったのか?」の事故に関する核心についてはまだまだクローズではあるが...。

 まっ、震災前の言論状況を振り返れば、ちょっとはマシになったんじゃないでしょうか、と思うわけです。

 そこに来て、昨日11月30日、原子炉10基を県内に抱える福島県佐藤雄平知事が、10基すべての廃炉を国と東電に求める考えを明らかにした。原発事故後に打ち出した「脱原発」姿勢からさらに踏み込んだ姿勢。

 ここはあれこれ詮索せず、まずは、その“勇気ある発言”に拍手を送りたい。

 だって、ついこの前まで、「原発がなければ生活できなくなる」とか言って原発をひたすら推進してきた側が、180度方向を転換したんだから、注目しないわけにはいかんでしょ、当然。→だって、元々、原発反対派だから、俺。

 「言うは易し行うは難し」で、はっきり言って、今後どうなるかは分からない。

 佐藤知事の発言は、あくまで「全原発廃炉」の目標であって断固たる宣言ではない。期待感はもちろん高いけど、楽観して信頼を抱くほど、さすがに純粋ではありません。

 自然界に住む人間が、自然界に存在しない危険極まりないモノを作り出し、それを使った後も気が遠くなるほどの時間をかけなければ安全が担保されないなどというエネルギーって何? 小学生でも想像できる「アホ」レベルの領域だと思うんだけど。経済効率優先で、安全に関する責任先送りの構造に義憤を覚える。

 願わくば、復旧という事実の積み上げで、せっかくおおっぴらに展開されるようになった原発議論が後退したり、最悪、風化することは避けたい。

 本日12月1日、地元の新聞社として、佐藤知事発言を朝刊1面トップで扱った河北新報社のスタンスを“あざ笑う”かのように、全国紙があまり目立たせずに紙面掲載したのは偶然ではないはず。

 タブーが完全に消え去るまでには長い時間がかかる。

 まっ、そういうもんなんだろう。