laid back

ほかから移ってきました。日々、思うところ感じるところを気ままにつらつらと。

あなたの知識ではなく、あなたの考えを知りたい。

 「『知る』ことは『感じる』ことの半分も重要ではない」

 名著『沈黙の春』の著者で、1960年代に環境問題を告発した生物学者レイチェル・カーソン(1907年−1964年)が、『センス・オブ・ワンダー』で語った言葉だそうです。

 子どもの「神秘さや不思議さに目を見はる感性」は「知識」よりも重要だと指摘したカーソンのこの言葉は、大人にも当てはまるんじゃないでしょうか?

 そんなことを、思っている。

 ネットの隅っこのほうで日々仕事をしていて感じるのは、「自分はこんなことを知っていますよ」というタイプの人たちがいかに多いか、ということ。目新しい情報をいち早く見つけ出し、「これ、知っている?自分はもう知っているもんねぇ」というニュアンスで、ツイッターやらフェイスブックやらブログやらで公表するというスタイル。

 いいんです、別に。知らないより知っているほうがいいことも多いから。

 ただ、「何か違うよな」と思うんです。

 その知った事についての、その人なりの考え方がなかなか見えてこず、単なる紹介に終わっている場合が多い。まるで、「次から次に飛び出してくる新しいモノを旬のうちにキャッチしておかなくては」という焦りのようなものさえ感じることがある。

 ネットって、そういうものなのかもしれない。そう思いつつ、「そういうもの」だからこそ、「そうでなくありたい」と、相変わらずあまのじゃくに思う。

 前にも書いたけど、“年がら年中”スマホやら携帯やらPCやらの画面を見ている人たちがいる。彼ら、彼女たちは、「そうしていないと落ち着かない」中毒レベルにあって、「知らないことがある」と焦り、日々変わりゆく情報の渦の先頭集団にしがみついていたいんだろうなぁ、と思うのだ。

 そんな先頭集団なんて、一種の幻想に近いと思っている。

 「知っている」「知らない」のレベルで知識の有無を他人と競う(意識しても無意識でも)ことの無意味さ。

 教えてくれたことには感謝するけど、知りたいのは、その“知識の先”。

 「そして、あなたはその知識について、どう感じ、どう思いますか?」と、問いたい。

 でも、知識について饒舌な人ほど、自分の考えについて問われると、途端に口を閉ざしてしまうことが結構ある。

 まっ、確たる根拠もなしに、むやみやたらと自分の考えを“ひけらかす”勘違いな人が多いのも確かなんですが...。

 どうなんだろう?