laid back

ほかから移ってきました。日々、思うところ感じるところを気ままにつらつらと。

「ありがとう」。

 被災地でボランティア活動する人たちに、断続的に話を聞き続けている。

 みんなそれぞれに違ったバックグラウンドを抱え、それぞれの思いでボランティアに携わっている。あるいは、いた。

 十人十色のエピーソードがあり、多くの共通した思いもある。

 その代表例が、「(被災者の人たちから)『ありがとう』って感謝されることが嬉しかった」という感想だ。

 そりゃ、そうですよね。誰だって、感謝の言葉をかけられれば嬉しい。震災という特殊な状況ならなおさらだと思う。

 それは分かる。理解できる。でも...。

 「どうしてこれだけの長期間、ボランティアしているんですか?」というこちらの質問へのひとつの返答として、「『ありがとう』って感謝されることが嬉しいから」と言われると...。

 誤解、曲解を恐れずに言えば、「感謝されること」が目的となっている。

 まぁ、もちろん、「言葉のあや」的なニュアンスがあることもあるのだろうけど...。

 異口同音の言葉に、「それほど、“感謝に飢えている”人たちが多いわけ?」。あるいは、「それほど、日々、感謝されることが少ないわけ?」などと不埒(ふらち)な疑問を抱いてしまう(^_^;)。

 仮に、実際、彼ら彼女らが震災前、感謝される機会が少なかったのだとしたら...。

 なんとなく、ぼんやりと、殺伐とした風景が頭に浮かぶ。

 顔を見知っているのに知らんぷりする近所の人とか会社の同僚とか同級生とか。仕事をたくさん部下に頼むくせに、感謝の一言がないのはもちろん、「それは当たり前だ」的に振る舞う上司とか。本来感謝されることなんだけど、その行為が日常化してしまい、「当然な事」として片付けられてしまっている状況とか...。

 小さな事でも、些細な事でも、ちょっとしたことでも、人は、他人から感謝されることが素直に嬉しい。

 そこでひとつ提案。“感謝される感激”を、この震災を通して味わった人たちに。

 みなさん、その貴重な経験を、被災地に限らず、自分が暮らす各地の場所で、今度は自分たちが他人に対して実践してみてはいかがでしょう?

 無意識であろうと意識的にしろ、感謝の気持ちを素直に表現できない人たちって、まだまだ沢山いると思うから。

 ACジャパンの回し者じゃないけど、やっぱ大事だよね、感謝の気持ち。ポロロ〜ン。