laid back

ほかから移ってきました。日々、思うところ感じるところを気ままにつらつらと。

それでも、海が好きだ...。

 今、こうして不自由なく暮らしている生活を、不思議に思う時がある。

 自分だって全てを失っていたかもしれない。命すら。

 そうならなかったのは、必然ではなく全くの偶然でしかなかった、と思い返す。

 海が見える土地を探し求めていた時期があった。

 今から7年ほど前。週末になると、福島、宮城両県の海岸線を訪れ、くまなく物件を見て回っていた。

 今、それらの場所は津波で壊滅した。ここに家を建てたら素敵だろうな、と思っていた土地は原形をとどめていない。

 学生時代からずっと通い続けている仙台市宮城野区のサーフスポット「仙台新港」周辺には、自分と同じように海に憧れ、海に臨む家を建て、生活を始めた人たちがいた。

 築10年になるかならないかの新しくモダンな家の残骸を、波乗りをしに海に行くたび目にしている。

 憧れの目で見つめていた大先輩のサーファー家族は別の海岸のすぐそばに移り住んでいた。





 彼ら彼女らの住みかはもうない。

 海沿いの適当な物件が見つからず、一昨年末、内陸の高台に家を新築し、日々の暮らしを送っている今、不思議な感覚を抱く。

 津波は、今に始まったことではない。

 日本だけが被災地でもない。

 長い歴史の中で繰り返し発生し、その都度人々を苦しめ、悲しめ、打ちのめしてきた。

 それでも、人々は海沿いでの暮らしを続けてきた。

 それは、漁師に限らない。海沿いの生活を好む、あるいは運命的に、人は海に戻って来た。

 まちかどブロガーさんが、「ジャッキー・チェンの丘。」のタイトルでブログを書いている。

 2004年12月のスマトラ沖地震で、死者約13万人、行方不明者3万7000人の甚大な被害が出たインドネシアスマトラ島北部アチェ州の町、バンダアチェでのひとコマだ。

 「香港のアクションスター、ジャッキー・チェン氏からの義捐金で高台に復興住宅を建設したのだが、 海で生きてきた人たちに高台での生活は馴染まなかったとみえ今では空き家だらけ。ある家などヤギ小屋になっているという。」

 甚大な被害を受けながらも、かの国では、人々が海に戻り、暮らし始めている。

 同じように津波で甚大な被害を受けた東北の沿岸沿いの地域でも、今後、人々は海に戻って来るのだろう。

 危険を理由に、海沿いの土地から人々の生活、暮らしを奪う権利というものはあるのだろうか?

 そんなことを、ずっと考えている。

 被災地で、「みんなの家」プロジェクトを進めてきた建築家の伊東豊雄さんがこう書いている。

 「安全安心という言葉だけがまかり通ってしまうと、被災地はどこでも退屈で楽しさとはおよそ縁遠い街ばかりになってしまいかねません。海と向かい合い、海と慣れ親しんできた三陸の人たちから海を奪い去り、都市郊外の団地のような街に住まわせることだけは回避しなくてはならないと思います。」(『あの日からの建築』(集英社新書)第1章結びの言葉)

 この国が地震大国の島国である以上、津波はいつかやって来る。

 甚大な被害を前に怯え尽くして身を隠すばかりでは、日常生活から潤いがなくなってしまのではないだろうか。