laid back

ほかから移ってきました。日々、思うところ感じるところを気ままにつらつらと。

水先案内人。

 フェイスブックやSNSなどのソーシャル・ツールを管理、運用する職場にいて、日々、気になる新聞記事やブログなどをネット上で紹介している。

 このところよく耳にする「キュレーション」という類いかもしれない。

 ウィキペディアによれば、キュレーションを担う「キュレーター」とは、「博物館(美術館含む)、図書館、公文書館のような資料蓄積型文化施設において、施設の収集する資料に関する鑑定や研究を行い、学術的専門知識をもって業務の管理監督を行う専門職、管理職を指す。インターネットやウェブサービスにおいて情報を収集・整理し他のユーザー(読者)に共有する行為や行為者を指す」そうだ。

 たまに自分もその言葉を使っているが、知ってる人しか知らないような専門用語的響きがあまり好きになれない。

 自分の業務に置き換えれば、早い話、ガイド役(案内人)なんだと思う。

 さまざまな情報が広く飛び交い、多種多様な生活様式で暮らす人たちに、ほんの小さな入り口をこまめにせっせと提供しているにすぎない。

 それを望む人もいれば望まない人もいて、そもそも全く関心がない人々が世の大半ではある。

 それを分かりつつ、地味な作業を続けている。断片的には止まっても、完全に立ち止まることは今のところない。

 仕事としてやっていながらも、「なんでこんな地味でゴールが見えないようなことを続けているんだろうか?」と、正直思うこともある。

 しかし、何となく直感的に、続けていくことに意義があるんだろうなぁなどと思っている。逆にいえば、そう思っていないとやっていられない。モチベーションを保つのが難しいんです。

 案内人は、決して主役ではない。あくまで裏方。あまり目立ってはいけない。それを分かりつつやっているつもりでも、例えば記事とかブログを紹介する時、平板な文章ではさっぱり面白くないなぁ、と自分が書いた紹介文面に唖然として書きなおすことが多々ある。

 紹介文とはいえ、書き手の個性を出さないことには平板でない文章をつくりあげることはありえない、と思っている。

 目立ちすぎず、しかしながら平凡でなく埋没しないような文章を書くということは、案外難しい。大作を仕上げているわけでもないのに、ほかの人の目から見れば「どうでもいいんじゃないの、そういうの?」と映っているかもしれないこの短文書きの作業に、時折四苦八苦している自分がいる。

 使命感とかそんな堅苦しいことなど全く思ってなく、「なんだかなぁ〜」などとぼやきつつ、それでも続けている意味と意義を、直感的ではなく確信的に感じられる日が、はてさてやって来るのだろうか......。

 どうなんでしょうかね、これって?