laid back

ほかから移ってきました。日々、思うところ感じるところを気ままにつらつらと。

内に秘めた悪意。。。

 人の不幸や失敗、犯した間違いなどを、ひそかに快く思ってしまう自分がいる。

「ざまぁみろ」

 そんな言葉を心の中でつぶやきつつ、あるいはほくそ笑みながら...。

 常日ごろから嫌悪している人ばかりではなく、ごくごく普通に接している人に対してさえ。状況や気分が、自分の中に“邪悪な思い”を呼び起こす。

 自覚しながら抱く嫌悪感。

 ひどく小さな自分が、哀しい...。愚かだ。ちっぽけだ。

 小さいころから、こういう感情には気付いていた。

 現実に振る舞っている自分と、それを頭上から俯瞰している自分がいて、主観的な思いと客観的な思いがないまぜになっているようで、案外クリアーですっきりとした感覚のような心持ち。。。


 でも、哀しいかな、そうした思いを完全になくすことができない。哀しいのかどうかも実際分からない。。。



 周りの人々にそれを悟られないようにすることはできる。


 でも、感情は心の中に澱のようにたまり続ける...。




 これって、自分だけの話なんだろうか?



 否。どんなに周りから聖人君子のように思われている人でも、いい人と思われている人でも、それなりに立派だと評価されている人でも、大なり小なり誰でも同じような気持ち、感情を抱いたことがない人はいない、と思う。



 そんなことを考えている。。。








 「暴力はやってくるのではない。帰ってくるのだ」



 読み終ったばかりの小説『光』三浦しをん 集英社文庫)の文中に出てくるこの言葉は、人間が内面にひめている暴力性のことをいっている。






 人を傷つけるのは、なにも殴ったり蹴ったり刺したりするようなバイオレンスに限らない。言葉や態度、振る舞い、悪意、といったことでもたやすく傷つけられる。直接人を傷つけない暴力、という形もある。例えば、呪い、とか。



 この小説は、東日本大震災が起こる以前の2006年に発表された。小さな島に押し寄せた大津波が壊滅的な被害を及ぼし、数百人の島民が死に、6人だけが生き残った。

 生き残った人々の、ある種、「悪意のお話」なのだ。

 読後感は全くすっきりしない。場合によっては、読まないほうがよかった、と思う人がいるかもしれない。

 題材が題材だけに、文庫本化が今月まで長引いたのも理解できる。


 本の帯に、こうある。

 「自然が引き起こした圧倒的な力より、われわれ自身の中に潜んでいる暴力、もしくは暴力への萌芽こそ、真に恐るべきものではないか。我々はそれを知りながら、気づかないふりをしている―。」



 まずは、自覚することから始まるのだと思う。。。